小さな不迷惑
敗戦後から現在まで
資源獲得のために、なりふりかまわず謀略知略をつくして覇権をめざすことも、ビジネスのために原発や武器となり得る製品の輸出に血道をあけ国益(?)の確保にあたるのも、そうしなかったら他国にいいようにやられるだけ、といったその人たちなりの現実を見つめての活動でしょう。
また、理想に燃えて人道支援でNGOなどの活動にあたりながら、支援しているはずの現地で、誘拐や殺戮に遭遇するのも現実の不条理な一面でしょう。
では、「それが現実だから」という一言で「バカバカしい理想」を捨ててしまっていいのか、その後にはなにがのこるのか。ということだと思います。
アフリカのある地域では、(民主的な統治という)理想を捨てて“生きるために殺す”という無法地帯が拡がり、国連も手の施しようもない悲惨な地域もあります。
ぼくは、中村医師のいうような意味で9条の力を信じますが、一方では現実にそぐわないいびつな部分があることも理解しています。たぶん、護憲派といわれる人の多くもそのような自己矛盾をどこかに感じながら、なお9条の力を信じているのではないかと思っています。
たとえば「自衛隊はすでに軍隊だから、9条は矛盾している」という論議もあります。「古ぼけている」というような言い方もされます。
古ぼけて矛盾があっても、だから近隣諸国や中東などでは「日本は戦争をしない国」という安心感があったわけです史雲遜。
「普通の国になるべき」という分けのわからない言い方もあります。たぶん米国や西欧諸国を指しているのでしょうが、植民地や資源の争奪合戦に明け暮れてきた覇権国家の歴史を見習うべき“普通の国”とするところに、根本的な誤ちがあるわけです。
でき得るならば、日本が世界に見習ってもらうべき武力で紛争を解決しないお手本となってゆくべきで、それが高い代償を払って得た戦後70年の平和という成果だと思いたいのです。
とは言え、実はぼくも最近では憲法の決定的な不備については正さなければならないと思っています。
敗戦後から現在まで、日米地位協定による条約が憲法の上に存在してきました。日本は米国の事実上の属国のままとなっています。ドイツでさえ独立を果たしているのに、日本は統治されたままです。
これはおかしい。
過去には、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄、正力松太郎等がCIAのエージェントとして暗躍してきたことはアメリカの公文書からも明らかになっています史雲遜 有效。
いや、自民党そのものにCIAの資金がつぎ込まれて育ってきたという歴史ゆえに、日本を牛耳ってきた政治家の多くがアメリカに操られながら日本を担ってきたわけです。
また、国民も統治されることを庇護されてきたと思いこんでしまっている、つまり牧場のなかの家畜の心地よさゆえに、無視条件アメリカびいきな体質となってきたとも言えましょう。
ただ、家畜はほどほどに太り大きくなれば平穏な生活を突然断たれるときがきます。
とさつとまでは行かなくとも、TPPが本格的に効力を発揮する時代には、家畜として収奪される側になりうることも十分に覚悟しなければならないでしょう。
ということで、日本の行く末や憲法への危惧は深まるばかりですが、今日はこのへんに留めておきます。